人間の創った技術、主義主張、宗教などを制御する普遍的な「言葉」は何だろうか?
人間の社会の仕組みというか、成り立ちについて考えると、それぞれが何かの仕事に就き社会の一部を構成する。だから「社会人」というのだろう。その意味で職業に貴賤は無い、というのだ。勿論、犯罪で稼ぐなどは無法者であって「社会人」ではない。
お医者さんが居なければ困ってしまう。農家が居なければ困ってしまう。漁師が居なければ困ってしまう。お母さんが居なければ困ってしまう。掃除のおばさんが居なければ困ってしまう。社会はそのように支えあっている。
社会は社会人がお互いに支えあっている。職業に貴賤は無い。このような事をきちんと学校教育で教えているのだろうか?
さて、国内で争い事があれば法律があり違法行為は警察などにより検挙摘発され、裁判所があり治安が守られる。国民がお互いに暴力で解決する事を未然に防いでいる。領土侵犯があれば自衛隊が急行するが、しかし、国際社会には警察にあたる組織がない。相手の暴力に対応する力が必要。
もしも警察も自衛隊も無ければ犯罪者や外国からの侵略に個人で対応しなければならない。そんな「無茶で野蛮な」仕組みにならないように警察や自衛隊が強制力である暴力を独占しているのが近代国家だと思う。言わば一般国民の武装解除が幸せであるとの方針だ。
「一般国民は国内犯罪に対する暴力を伴う自衛は不要」を国際社会向けに拡大解釈し過ぎて「電波」になっているのが、サヨクだ。日本が実際に侵略を受けたら誰が守ってくれるのか。自衛隊だ。
人間だけで社会が構成されている訳ではなく自然や植物、動物、などもあり、自然は時に災害となり人に襲い掛かり、動物もかつては人間の生活の大きな災厄であるときもあった。人は自然や動物、植物、などと一緒に生きる共生を長い年月をかけて、創り上げてきたのだ。
自然や動植物と共生してきた人間は、日本人の場合、八百万の神様を感じた。命を貰った魚、動植物を食べ物として「戴く」際には「戴きます」と言う。食事をくれた人、作ってくれた人、にも感謝しているが、その先の「私にはもったいない命」に感謝するのだ。
給食の際に「戴きます」を子供に言わせないというモンスターペアレンツが居るらしい。
自然と命への感謝なのだから「お金を払っているから『戴きます』は言わない」という理屈は成り立たない。
お金を払っているのだから店員さんに「ありがとう」と言わないという人がいるらしい。社会を社会人みんなで支えているという気持ちが浸透していれば、こんな発言は出てこない。
ということで「ありがとう」「戴きます」は日本人の生きる基本の日本語だと思う。社会を支えるお互いへの感謝の「ありがとう」、自然を、命を戴くことへの感謝の「戴きます」。
自然や動植物と共生してきた人間は、自らが作り出した技術や主義主張、宗教などを駆使して「文明」なるものを築いてきたが、その技術、主義主張、宗教も時には人間に襲い掛かる災厄となる場合がある。原発事故や、宗教戦争、イデオロギー戦争を見よ。
地震だけならば、耐震設計の建物は強かった。しかし、津波が来た。そして人間が創った原発が管理できずに壊れ、染み出し、人と自然と魚や動植物に襲い掛かった。上記のお互いへの「ありがとう」や自然、動植物への「戴きます」では済まない事態だ。
お互いへの「ありがとう」や自然、動植物へ感謝の「戴きます」、この二つは社会を守る言葉。人間の創った技術、主義主張、宗教などを制御する普遍的な「言葉」は何だろうか?「本当に大丈夫か?」「責任を持てますか?」「子供に説明できますか?」なんだか説教じみた普遍的でない言葉しか出てこない。
古臭いが日本人なら伝わるかも知れない技術、主義主張、宗教などを制御する普遍的な言葉は「ご先祖様に顔向けできますか?」と「お天道様に恥ずかしくない」だろうか?「ありがとう」は社会と人への感謝、「戴きます」は自然と命への感謝、そして「お天道様」で人間の責任への牽制、これで行こうか。
あなたは「ありがとう」を言っていますか?自然に感謝して「戴きます」を言っていますか?「お天道様」に恥ずかしくないですか?オイラも心がけます。(2012/01/20初出)