私の記憶に誤りがないならば、ラフカディオ・ハーンは心身を備えた生身の神、老いたる農夫を見た。その農夫は、ある夏の夕方、自分の住んで居る岬から、巨大な津波が押し寄せてくるのに気がついた。水平線の果てに現れたその大波はみるみる巨大に膨れ上がり、陸地に近づいてきて、村人全部をその波間に呑み込んでしまうかと思われた。農夫はためらうことなく自分の手で収穫したばかりの稲わらと穀倉に火をつけた。彼がどんなに叫んでも声の届くはずのない丘の上に、火の手を見つけた村人たちが駆け上がってくるのを願ってのことである。
村人たちが感謝して彼のために建てた寺は、この農夫の家から遠くなかった。耕している田畑から、彼はそのわらぶきの屋根を、木立ごしに見ていた。日々の生活の中で、人びとがこの農夫に対して神としての敬意を表していたろうとは私は思わない。しかし、この土地の子供たちは、いつからかこの人物が神の魂を実際に宿したことを知っていた。
ヨーロッパの人たちが日本の無宗教について語るとき——ある人びとはそのことを嘆き、他の人びとは、もっといけないのだが、それをほめそやすたびに——人びとは肩をすくめずにはいられない。神がその路上を歩んでおり、その屋根の下に住んでおり、神の誇りとする行為がその存在の目に見える閃光にほかならないと、こんなにも信じている国民を、私はかつて見たことがない。
※ 有名な「稲むらの火」ですね。明治になってからこの話を聞いた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が著書「A Living God(生き神様)」で全世界にこの話を紹介したため、多くの国の人たちが知っているそうです(Wikipedia参照)。
アンドレ・ベルソール=フランス人。1897年(明治30年)12月から翌年8月にかけて日本を旅行した。小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、著書「明治日本滞在記」の中では、日本についてもしばしば遠慮のない評言をしている。