「終戦直後」ソ連侵攻に立ち向かう 占守島の自衛戦決断した旧陸軍軍人、樋口季一郎
「終戦直後」ソ連侵攻に立ち向かう 占守島の自衛戦決断した旧陸軍軍人、樋口季一郎
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/53011
世界経済に影響を与え、泥沼化の様相さえ見せるロシアによるウクライナへの軍事侵攻。“ロシアの侵攻”といえば、日本との関係では1945(昭和20)年8月18日の旧ソ連(ロシア)による占守島(しゅむしゅとう)侵攻が知られる。この侵攻の結果、北海道の北方領土が実効支配されて現在に至るのだが、実は岐阜県ゆかりの人物がその侵攻に立ち向かっていた。北海道本島を守ったといわれる“終戦後”の国土防衛戦だ。
ソ連の侵攻があったのは8月15日に太平洋戦争が終わった直後。当時、日本の領土は千島列島と南樺太まで広がっていたが、日ソ中立条約を破棄したソ連が18日、カムチャツカ半島の先にある、千島列島北東端の占守島に侵攻した。
島では日本軍の守備隊が自衛で応戦。激しい戦闘となり、多くの死傷者が出た。停戦命令を受けて21日に日本側が降伏。ソ連軍は千島列島を占領し、北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)も、米軍がいないことを知ると9月5日までに全島を占領した。
占守島での自衛戦を決断したのが県ゆかりの旧陸軍軍人、樋口季一郎(1888~1970年)だった。兵庫県の淡路島に生まれたが、大垣市の樋口家の養子になったことで樋口姓を名乗った。ロシア語が堪能で軍では対ソ連関係の仕事に従事。終戦時は、札幌市に置かれた旧陸軍第5方面軍の司令官だった。ソ連のスターリンは北海道本島も狙っていたとされ、樋口の決断がなければ北方領土どころか、日本が南北に分断されていたとみる人もいる。
札幌市の、つきさっぷ郷土資料館には樋口の遺稿を活字にした私家版の「遺稿集」がある。その記述によると、ソ連軍が占守島に侵攻した18日は太平洋戦争が終わり、日本軍が自衛を除く戦闘行為を停止し、完全撤退する日だった。
樋口は、ソ連の侵攻に対し「(18日は)『戦争と平和』の交替(こうたい)の日であるべきであった。(中略)『不法行動』は許さ(れ)るべきでない。若(も)し、それを許せば、到(いた)る所でこの様な不法かつ無智(むち)な敵の行動が発生し、『平和的終戦』はあり得ない」と書いていた。
樋口の孫で、明治学院大名誉教授の樋口隆一さん(75)=東京都=は祖父が遺した資料を2年前、書籍「陸軍中将 樋口季一郎の遺訓-ユダヤ難民と北海道を救った将軍」(勉誠出版)にまとめた。「8月15日以降の戦いは日本を守るための戦いだった。結果的に北海道を守った。日本は分断されなかった」と語る。ウクライナ侵攻については「あの時(占守島侵攻)と同じやり方だ」と憤った。