名越二荒之助編著「昭和の戦争記念館」第4巻“大東亜戦争その後”より
パラオで昭和天皇の御在位60年の奉祝パレードについての記述
パラオ共和国では、昭和六十一年(1986年)十一月二十三日に、「天皇陛下御在位六十年」の奉祝式典を行い、提灯行列に移った。
その話を最初に聞いた時には信じられなかった。その写真を貰っても、何だか半信半疑の気持ちが残った。私が現地に出かけて尋ねたら「私たちがやりました」と、写真にうつっている人々が名乗り出てきた。そして紹介されたのが、日本名で、沖山豊美(父が日本人)という人であった。
彼女は戦前の日本の高等女学校を卒業した唯一人のパラオ人である。女学校をトップで卒業し、五カ国語に通じ、アメリカでは「バロン・オキヤマ」と呼ばれて尊敬されている、と聞く。私の質問に対して彼女は、「天皇陛下は世界で最も尊い方」と前置きしてゆっくり、しかし正確な戦前の日本語で答える。彼女が挙げた、御在位六十年を祝う理由は、次のようなものであった。
(1) 世界で一番古い家柄の方である。他のどの王室も遠く及ばない。
(2) 日本の軍人はペリリューやアンガウルだけでなく、他の戦場でもあれだけ立派に戦った。それは天皇の力であって、アメリカ人もペリリュー島を「天皇の島」と呼ぶようになった。
(3) 日本人があれだけ真剣に戦った戦争だが、それを一ぺんにやめさせられたのも、天皇の力だった。天皇の命がけの決断で我々も救われた。
(4) 日本は戦争に負けたのに天皇は相変わらず天皇であられる。こんな例は世界史上例がない。
(5) その天皇が六十年も在位された。順風の時代に在位されたのではなく、興隆と敗戦の激動を通じてずっと天皇であられた。この僥倖を思うと日本人でなくてもお祝いしたい気持ちになる。
〈中略〉天皇に親愛感を持っているのは、沖山さんだけではない。政府顧問をしているイナボさんもそうだ。彼は戦争中ペリリュー島で戦車に対する肉迫攻撃の訓練を受けていた。日本の兵隊さんといっしょにペリリュー島を守りたかったが中川守備隊長は、パラオ人全員を本島に移し、日本軍人だけで戦った。そのために英霊に対して申し訳ないという気持ちが強い。そして今生きているのは、昭和天皇が終戦の御聖断をくだされたから、と思っている。
忘れもしない、昭和六十三年四月二十六日のことである。彼は娘と姪を連れて日本にやってきた。天皇陛下が御病気なのでお見舞いに来た、と言う。二十九日の「天皇誕生日」には、私たちも彼らを皇居参賀に案内して、日の丸とパラオの国旗を振って「天皇陛下万歳」を何度も唱えた。彼は「陛下のお元気な声を聞けて、安心して帰れる」という。帰途楠公さんの銅像に参り、靖国神社に参拝した。道すがら彼は言っていた。
「日本で大切なものが四つある。御皇室と靖国神社と桜と富士山だ。これを忘れたら日本は日本ではなくなる」と。